掲載2010年8月15日

訳者メモ

スターリンは、ドイツの降伏から3ヶ月以内に対日戦に参加することを約束していた。ドイツの降伏文書調印・発効が、時差もあって幅があるが、1945年5月7日~9日である(ウィキペディア「ヨーロッパ戦勝記念日」)。つまり、3ヶ月後は8月7日~9日であり、原爆投下のタイミングと完全に一致していることがわかるだろう。原爆投下により、アメリカはソ連に対して優位を確保しながら、戦後の世界覇権を築き、後に「冷戦」を創り出すことができた。

なお、ニューメキシコ州で原爆のテストに成功した1945年7月16日、広島の原爆投下1945年8月6日、終戦の日とされる1945年8月15日も、いずれも数字を合計すると33になる日である。

権力者に操られた 良い人と言うイメージを持つ人が 

実は全て裏で操っていたことは多いの  

昭○天皇もそう

世間的な評価では 彼は何も知らず 軍部に 騙されて 

巻き込まれた哀れな戦争指導者と見られてる 

でも実際は 彼自体が戦争を望んでいた  

彼の声の響きには 

背筋が凍る位の おぞましい響きが 奥にこめられていた 」

φ(・・;)・・・・・・・・・・

第一 本当に良い人が 戦争を起こすと想う? 

子供だって その意味を知っている 

彼は戦後 先の戦争について テレビ記者から質問され

戦争について悔みを述べる発言をしてた時

戦争を語る声の響きには  発言内容とまったく違う音の響きが 現れてたの

震えが出てた 

戦争を楽しんでいた歓びがね 

人が間近で焼かれる光景を想いながら 

自分の名前を呼びながら死んでいく兵士のエネルギーを感じながら  楽しんでいた 

そんな光景が 響きから読みとれたの 」

((((((((φ(・・;))))))))))))))))))))))))))) 

そしてその響きには こうも現れていた

彼は最初から負けることを知りながら 

軍人達の潜在意識を操作して 戦争を引き起こしたと 」

φ(・・;)・・・・・・・・

エッ?負けるのに・・・

でも何故? 

おそらくこう言うこと

彼は 若い時分  欧州の王族達 吸血鬼達に その魂を取り込まれたの

滞在時に 快の状態を与えられ 

彼らのような国に憧れ  日本も同じような環境にしたいと想った 

西欧化したがったの

でも日本には 小うるさい勢力がいっぱいあった 

自分に忠義を尽くしながらも 

伝統の名のもとに 権益を守る事を計り 

あれこれと注進する 邪魔なご意見番がね

彼らを一掃する為に 

軍人達を操り 欧米との戦争を引き起こした

負ける事は最初から重々承知だった  

官僚は基本 序列の犬だから

強いものには巻かれる 

負ければ 木端役人達が 欧米の言いなりになることも わかっていた

欧米の吸血鬼達が望む 国の形にすることがね 

今も 木端政治家や役人は 欧米に逆らえないのは

あの時 負けた記憶が在るから 」

((((φ(・・;))))))))

でっでも

戦争に負けたら

自分の身が危うくなる危険性とか考えなかったの・・・

「だって欧米の吸血鬼からすれば

一国を手土産に携える 子分ができるようなものじゃない

その大事な子分を 滅ぼすわけはない

彼らだって 天皇が居なくなれば

日本に 言う事を 聴かせられなくなることを  重々承知してた筈

それに 戦争責任を負わせる悪役も

開戦前から 用意されていた

皇族の首相は 開戦前に辞め  代わりに首相の座に着いたのが  

あの天皇に忠義を尽くした  戦争馬鹿だった   」

φ(・・;)・・・・・・

「驚くことはないわ 

古代から 天皇家は 家臣に争わせたり スケープゴートにしながら 

自分の意を叶えることが 常套手段だったから

家臣の一派に 自分の脅威となる者が居たら 

自分は中立を装いつつ 

別な家臣を炊きつけ 争わせ 取り除かせていた 

彼らは 序列というシステムを作った事

さらに助けを請う事で 

序列の下位の潜在意識を 快の状態に落しこみ 操作する事に長けていた

そしてどんなに忠誠を尽くそうが 

どんなに命を捧げようが

所詮 駒にしか見ない 」

幻の桜「音の技法 その1」(2010年8月8日)より転載

「若い頃、 滞在時に快の状態を与えられ、欧州の王族達、吸血鬼達に、魂を取り込まれた。彼らのような国に憧れ、日本も同じようにしたいと想った」という部分が核心をついていると思う。恐らくマッカーサーと会見したときに、「お仲間でしたね」ということで意気投合・感激し、日本を「理想」の国にしようと「男の約束」をしたのではなかろうか。原爆投下から占領、冷戦期とアメリカの都合の良いように全てが進行し、いまだにアメリカの実質支配下にある日本であるが、今の日本こそが昭和天皇が夢見た日本の姿だったのである。

第二次世界大戦が原爆で終わった理由

Why World War II ended with Mushroom Clouds

ジャック・R・ポーウェルズ

By Jacques R. Pauwels

2010年8月6日

1945年8月6日、月曜日、午前8時15分、アメリカのB29爆撃機エノラ・ゲイが、核爆弾「リトル・ボーイ」を広島に投下、推定8万人をただちに殺した。その年末までに、負傷と放射線により、犠牲者の合計は9~14万人に達した。[1]

1945年8月9日、午前11時2分、長崎が世界で2発目の原子爆弾の標的となった。この「ファット・マン」と名付けられた爆弾により、市の北部が破壊され、推定4万人が殺された。原爆投下による死者は73,884人、負傷者は74,909人、さらに何十万人もが放射性降下物など放射能によって瀕死の病気になった。[2]

ドイツの降伏とソ連の要望

ヨーロッパの戦場では、ナチスドイツの降伏により、1945年5月初めに第二次世界大戦は終わっていた。勝者側の「三大国」であるイギリス、アメリカ、ソ連は、戦後のヨーロッパ再編に関して複雑な問題に直面していた。アメリカは、かなり遅れて1941年12月に参戦し、戦闘終了まで1年足らずという1944年6月のタイミングになってようやくノルマンディー上陸作戦を行い、ドイツと戦っていた連合国軍に貢献らしい貢献をし始めた。にもかかわらず、ドイツとの戦争が終わると、アメリカは自信たっぷりにちゃっかりと勝者の席に座り、断固として「戦利品」を獲得しようとした。

ソ連は、共通の敵ナチに対する戦闘で最大の貢献をし、比較にならないほど大きな損失を被った国として、ドイツに重い賠償金を望むとともに、ドイツ、ポーランド、その他東欧諸国に戦前のようにソ連と敵対しない政権を置き、将来侵略されることのないよう安全を確保しようとした。また、革命と内戦の時代にソ連が失った領土の埋め合わせも期待していた。そして、戦争という苦難を経た後に、社会主義の社会を建設する仕事を再開できることを望んでいた。英米の指導者たちも、こうしたソ連の目的を知っており、テヘランやヤルタの三カ国会談の場などで、その正当性を陰に陽に認めていた。だが、ソ連が戦利品を得ることを英米が歓迎していたわけではなく、そこには米国の主な目的と対立する可能性が潜んでいた。米国の狙いは、西欧、敗戦国ドイツ、そしてソ連が解放した中欧・東欧に米国の輸出・投資を行うための「開けっ放しの入り口」を設けることだった。いずれにしても、1945年の春にフランクリン・D・ルーズベルトを引き継いだハリー・トルーマンなどアメリカの政界・実業界のリーダーたちにとって、ソ連の願望など基本的な内容でさえ、少しも理解を示す必要はなく、同情もしていなかった。彼らは、ソ連がドイツから多額の賠償金を受け取るという考えを忌み嫌っていた。そのような厳しい処置をすれば、米国の輸出・投資に極めて高い利益をもたらす可能性のあるドイツ市場を失うことになるからだ。その上、ソ連が賠償金を手に入れれば、米国がチャンピオンとなった国際資本主義体制に「対抗する体制」(共産主義社会)の建設を再開できることになり、これはうまく行きかねなかった。ドイツがソ連に賠償するということは、戦争中にナチのために様々な武器を製造し、大儲けしていた[3]米国企業(フォードやGM)のドイツ支部が、ソ連のために生産活動を行うことを意味し、もはや米国のオーナー・株主を豊かにしてくれないことを意味することを、アメリカの政治・経済エリートは、十分に認識していたはずだ。

原爆という救世主の登場

ソ連がある程度、賠償金と安全保障を確保できない限り、三大国の交渉は、ドイツと東欧からの赤軍の撤退という結論には落ち着かなかったはずである。しかし、1945年4月25日、トルーマンは、間もなく米国が新型の強力な兵器(原爆)を利用可能になることを知った。この兵器を手に入れることは、それまで想像すらできなかった極端に有利な展望が開けることを意味した。新たに大統領になったトルーマンと彼のアドバイザーたちが、歴史家のウィリアム・A・ウィリアムズ(アメリカ人)が「全能の神の夢想」と名付けた魔力にとりつかれたのも無理はない。[4]

もはやソ連と難しい交渉をする必要もなかった。原爆があれば、それまで行った約束も無視して、ドイツから赤軍を撤退させ、ドイツの戦後政策についてスターリンに口出しさせないことも可能だった。ポーランドなど東欧諸国に「親・西側」の政権どころか、反ソ政権を設置することも可能であり、ソ連自体をアメリカ資本の投資対象として開放させ、共産主義という異端を資本主義の普遍的な教会に奪回して抱き込み、アメリカの政治・経済の影響下に置くことすら可能かもしれなかった。

ドイツが降伏した1945年5月の段階で、原爆は殆ど完成していたが、まだ完全ではなかった。そこで時間稼ぎを考えたトルーマンは、三国会談への参加同意を遅らせる作戦をとった。その結果、1945年夏にポツダム会談が開催され、この三国会談で戦後のヨーロッパの運命が決まることになった。そのときまでに原爆が完成すると聞いていたからである。トルーマン自身がある時に語った表現で言えば、「クレムリンのやつらの頭上に」ふりかざす「ハンマー」として利用可能になる予定だった。[5]

1945年7月17日に始まり、8月2日まで続いたポツダム会談の場で、トルーマンは待ちに待った連絡を受け取った。7月16日にニューメキシコ州で実施した原爆の実験は成功だった。そうなると、スターリンに面倒な提案をする必要もなくなり、次々に要求をたたきつければよかった。同時に、ドイツの賠償金支払いに関する提案など、先の連合国内の合意に基づく理にかなった提案も含め、トルーマンはソ連が行っていた提案を即座に全面拒否した。だが、アメリカは驚異的な新兵器を手に入れたという不吉な脅迫をトルーマンがスターリンの耳にささやいても、スターリンは期待に反して自発的に服従する意思は見せなかった。既にアメリカの原爆情報を知っていたソ連のスフィンクス(スターリン)は、石のように沈黙して話を聞いた。困惑したトルーマンは、ソ連を納得させるためには、原爆を実際に使ってみるしかないという結論に達した。このため、ポツダムでは、何ら一般協定には至らなかった。事実、実質的なことは何も決定されていない。歴史家ガー・アルペロビッツ(Gar Alperovitz)は、「会議の主な結果」は、「次回の会議まで不同意のままにするという決定ばかり」だったと述べている。[6]

本当はアメリカも望んでいたことを絶対条件にしてしまった日本

その頃、極東では、日本が絶望的な状況の中で戦闘を続けていた。実際には降伏する用意ができていたが、一つの条件にこだわっていた。それが、天皇裕仁の免責の保証だった。これがアメリカの無条件降伏の要求と対立していた。とはいっても、日本側の提案内容で戦争を終えることも可能だったはずである。実際に、3ヶ月前のランスでのドイツの降伏も、完全に無条件ではなかった。(アメリカはドイツの条件に同意していた。できるだけ多くのドイツ軍部隊が東部戦線を離脱し、英米に降伏できるように、45時間の猶予をもって停戦が発効することになった。この部隊の多くは、ソ連の赤軍との対決に備え、戦闘可能な状態のまま、軍服のまま武装し、司令官もそのままで維持された。これは、戦後、チャーチルが認めていることだ。)[7]

いずれにしても、東京が出した唯一の条件は、重大なものとは言いがたかった。現実に、その後、日本の無条件降伏をひねり出すと、アメリカは裕仁のことなどまったく気にしなかった。裕仁が、その後何十年も天皇の地位にとどまることができたのは、まさにワシントンのお蔭である。[8]

日本は、戦争中ほとんど中国にとどまっていた陸地戦力の主力を無傷のまま残していたため、降伏にはまだいろいろと条件をつける余裕があると思っていた。本土防衛にこの戦力を使えば、アメリカの勝利は確実とはいえ、高い代償を払わせることができると考えていた。ただし、そうなるためには、ソ連が極東の戦争に手を出さないでいる必要があった。もしもソ連が参戦すれば、日本の戦力は中国本土に釘付けになってしまうからである。つまり、ソ連の中立は、東京にとってわずかな望みだった。もちろん戦勝は望むべくもないが、天皇に関する条件をアメリカに受け入れさせることぐらいは期待できた。日本との戦いが長引いた理由には、ある程度、ソ連が関与してなかったことがある。すでに1943年のテヘラン三国会談の場でスターリンは、ドイツが降伏すれば3ヵ月以内に日本に宣戦布告することを約束しており、1945年7月17日のポツダムでもこの約束を繰り返し表明している。このため、ワシントンは8月中旬までにはソ連が日本に攻撃をかけると計算しており、日本にとっては絶望的な状況であることを十分に理解していた。(極東での戦争にソ連が参加する見通しに関し、「そうなれば日本は終わりだ」とトルーマンは日記に書き残している)[9]

さらに、日本がアメリカの侵攻から本土を防衛するために中国から陸軍を輸送しようとしても、米海軍にはそれを阻止する能力があり、その意味でもワシントンは安心だった。明らかに米海軍には、封鎖だけで日本を屈服させる能力があり、本土侵攻すら必要なかった。食糧や燃料といった生活物資を奪われた日本は、遅かれ早かれ無条件降伏するしかないと予想されていた。

原爆投下の本当の目的

従って、日本との戦争を終わらせるという意味では、トルーマンには非常に魅力的な選択肢がいくらでもあったのである。天皇の免責という取るに足らない条件を受け入れることもできた。中国でソ連の赤軍が日本を攻撃するまで待ち、日本を無条件降伏に追い込むこともできた。あるいは、海軍の封鎖で兵糧攻めにすれば、遅かれ早かれ東京は和平に訴えるはずだった。だが、トルーマンと彼のアドバイザーたちは、こうした選択肢は採用せず、原子爆弾で日本を叩きのめすことにしたのである。この女子供を中心に何十万人もの生命を犠牲にした運命の決定には、アメリカにとって多くの利点があった。第一に、原爆によって、ソ連がアジアの戦争に関わる前に日本を降伏に追い込むことが期待できた。そうすれば、戦後の日本、日本が占領していた地域(韓国、満州など)、極東と太平洋地域全般について、ソ連に口出しされることもなくなる。そして、世界のこの地域に対し、米国は完全な覇権を得ることができた。そもそも(公言されてはいないが)日本との戦争の本当の目的はそこにあったと言えるだろう。単に封鎖によって日本を降伏に追い込む作戦が拒絶されたのは、まさにこの点を考慮したからである。ソ連の参戦までに降伏させることができなければ意味がなかったのである。(戦後の米国戦略爆撃調査は、「原爆を投下しなくとも、1945年12月31日までには確実に日本は降伏していただろう」と述べている)[10]

遅ればせながら欧州戦争に参加しておきながら、勝者の席に着き、負けた国に要求をつきつけ、占領地域を分割し、国境を変え、戦後の経済・社会・政治構造を決定し、自らに莫大な利益と特権を導き入れたアメリカと同じことを、ソ連も極東の戦争に介入すれば極東でやりかねないことをアメリカの指導者たちは心配していた。ソ連がそうした行動を取ることを、決してワシントンは望んでいなかった。アメリカは、極東・太平洋地域のライバル日本に対する勝利を目前にしていた。多くのアジア諸国に危険で忌み嫌うべき共産主義思想を波及させかねない新たなライバルの登場に煩わされるのは好ましくなかった。アメリカは、原爆を落とすことで、早々に日本を片付け、一人勝ちの騎士として極東に従事したかったのである。招かれざる客(ソ連)に戦勝パーティを台無しにされたくなかったのだ。第二に、ワシントンには原爆投下による重要な利点があった。ポツダムでの経験から、トルーマンは、スターリンに言うことを聞かせるためには、新型兵器を実際に使ってみるしかないと確信していた。「ジャップ」の都市を核攻撃し、できれば空襲を受けてない処女地を標的にして損害のすごさを印象付ければ、ソ連を脅し、ドイツ、ポーランドなど東欧・中欧問題で譲歩を引き出すことができそうだった。

原爆は、ソ連が極東に介入する直前に準備完了した。だが、1945年8月6日の広島の核爆発は、ソ連の対日参戦を防ぐには遅かった。また、アメリカが期待したようには、日本はすぐに降伏しなかった。そして、1945年8月8日、ドイツがベルリンで〔5月8日に〕降伏してからぴったり3か月後に、ソ連は日本に宣戦布告した。翌日の8月9日に、赤軍は北支に駐留していた日本の軍隊を攻撃した。もともとワシントンはソ連の介入をずっと要望していたが、最終的にソ連が本当に介入したときには、トルーマンも彼のアドバイザーたちも、スターリンが約束を守ったことに歓喜するというにはほど遠かった。日本の統治者が広島の爆撃に直ちに反応して無条件降伏しないということは、1機の飛行機と1つの爆弾だけでそれだけの損害が発生したことを理解できていない可能性があった(従来型の空襲でも同等の被害が発生していた。例えば1945年3月9~10日には何千機もの爆撃機が首都を襲い、広島以上の被害者を出している)。

いずれにしても、無条件降伏には少し時間が必要であり、この遅れのためにソ連が対日戦に加わったのである。ワシントンはこれに非常にイラだっていた。ソ連の対日宣戦布告の後、1945年8月9日、第二の原爆が長崎市に落とされた。アメリカの元従軍牧師は後にこう述べている。「私は、二発目の爆弾が落とされた理由の一つはこれだと思っている。急いでいたのだ。ソ連が現れる前に、日本を降伏させたかった」[11]

(この従軍牧師が知っていたかどうか分からないが、長崎で「瞬時に焼死し、炭化し、蒸発した」75,000人の中には、多くの日本人カトリック教徒がいた。また、人数は不明だが連合国軍の戦争捕虜が収監されており、その存在が航空軍団に報告されていたが無駄な努力に終わっている。)[12]

日本が降伏を決める8月14日までには、更に5日かかった。一方で、トルーマンと彼のアドバイザーたちにとって無念なことに、赤軍は相当な成果を上げていた。

そのため結局、アメリカは、極東でのソ連のパートナー役を押し付けられた。アメリカがそれを甘受しただろうか? トルーマンは、欧州での三カ国の協力に関して確立していた先例を無視し、そうではないことを明確にした。すでに1945年8月15日、ワシントンは、ソ連が占領した日本の領土に関するスターリンの要望を拒否していた。そして、1945年9月2日、東京湾の戦艦ミズーリでマッカーサー将軍が日本の降伏を正式に受け入れたとき、極東に関わっていた連合国(イギリス、フランス、オーストラリア、オランダとともに、ソ連も)の代表は、あまり重要でない見物人として参加することを許可されていた。ドイツとは違い、日本は分割占領にはならなかった。アメリカが破ったライバルはアメリカだけで占領することになり、アメリカの「東京総督」としてマッカーサー将軍は、勝利に貢献した度合いに関係なく、アメリカ以外はどの国も戦後日本の問題に口出しできないことを明確にした。

「過ちは二度と繰り返しませぬ」

65年前のトルーマンには、日本を屈服させるために原爆を使う必要はなかったが、原爆を使いたい理由があった。原爆により、アメリカは日本に無条件降伏を強要し、ソ連を極東からはじき出すことができたが、それだけが理由ではない。おろそかにできない理由だが、ヨーロッパにおいてワシントンがクレムリンに意志を押しつけることも可能になったのである。こうした理由のために広島と長崎は壊滅させられた。多くのアメリカ人の歴史家がこのことに気付いている。例えば、Sean Dennis Cashmanはこう書いている。

時間の経過とともに、多くの歴史家は、爆弾が政治的な理由のために使われたと結論づけている。(略)バヌバー・ブッシュ(Vannevar Bush、アメリカ科学研究センター長)は、原爆は「戦争終結時にソ連にまったく譲歩しなくて済むよう、間に合うように投下された」と書いている。ジェームス・F・バーンズ国務長官[トルーマンの国務長官]は、ヨーロッパでソ連を操縦しやすくするため、ソ連にアメリカの力を見せ付けることがが爆弾を使った目的だったという発言が彼のものであることを否定していない。[13]

だが、当時、トルーマン自身は、二つの核爆撃の目的は「若者たちを家に帰すこと」、つまり、アメリカ側の犠牲を最小限にして戦争を早期終結させることだったと、偽善の言葉を残している。この発言が批判されることもなくアメリカのマスコミに流れ、やがて米国と西側全体のマスコミと歴史家に拡大して、熱心に宣伝されることとなった。なお、8月6日と9日には大手の新聞をチェックしてほしいが、この作り話は今でも健在だ。イランや北朝鮮を核攻撃する際の理由にも利用されることだろう。

(翻訳:為清勝彦 Japanese translation by Katsuhiko Tamekiyo)

関連情報

原文 Why World War II ended with Mushroom Clouds (Global Search)

脚注

[1] http://en.wikipedia.org/wiki/Hiroshima.

[2] http://en.wikipedia.org/wiki/Nagasaki.

[3] Jacques R. Pauwels, The Myth of the Good War: America in the Second World War, Toronto, 2002, pp. 201-05.

[4] William Appleman Williams, The Tragedy of American Diplomacy, revised edition, New York, 1962, p. 250.

[5] Quoted in Michael Parenti, The Anti-Communist Impulse, New York, 1969, p. 126.

[6] Gar Alperovitz Atomic Diplomacy: Hiroshima and Potsdam. The Use of the Atomic Bomb and the American Confrontation with Soviet Power, new edition, Harmondsworth, Middlesex, 1985 (original edition 1965), p. 223.

[7] Pauwels, op. cit., p. 143.

[8] Alperovitz, op. cit., pp. 28, 156.

[9] Quoted in Alperovitz, op. cit., p. 24.

[10] Cited in David Horowitz, From Yalta to Vietnam: American Foreign Policy in the Cold War, Harmondsworth, Middlesex, England, 1967, p. 53.

[11] Studs Terkel, "The Good War": An Oral History of World War Two, New York, 1984, p. 535.

[12] Gary G. Kohls, “Whitewashing Hiroshima: The Uncritical Glorification of American Militarism,” http://www.lewrockwell.com/orig5/kohls1.html.

[13] Sean Dennis Cashman, , Roosevelt, and World War II, New York and London, 1989, p. 369.