掲載2010年10月22日
間引きのグローバル化と「少子化」対策
人生というものは、面倒臭いものである。「やらなければならない」ことが多すぎる。もともと面倒臭いものなのか、人間の思い込みで面倒臭くしてしまったのかは、よく分からない。楽しいこともあるが、嫌なことの方が圧倒的に多い。
よく宗教家やスピリチュアル系の人には、今の時代の地球に生まれることは、ごく限られた魂だけに与えられた貴重な経験であるとか、要するに我々の自尊心をくすぐるようなことを言うわけであり、そこまで言わない場合でも、自分で選択して生まれてきたとか、少なくとも生きることは素晴らしいことであると言うわけであるが、人生に価値があるということを客観的に立証することはできない。当然の前提(つまり、思い込み)でしかないのである。
論理だけで考えた場合、もし自分で選択できるというのが本当なら、私なら生まれてきたくないと考えるだろう。また、すぐにでも死にたいと考えるが、私は死をもってすべてが無くなるとは信じられないし、死んだ後の方が今より良いという確証がないので自殺しないだけである。戦争にでもなって徴兵でもされれば、人を殺してまでこの面倒臭い人生を永らえたいとは思わないので、自殺という選択もありうると思う。
日本では毎年3万人が自殺しているそうだが、現代の表向きの価値観は、人命尊重主義をすべての基礎にしている。本当の価値観は、偏狭な個人主義であり、マネー崇拝であり、支配欲と依存欲のセットであり、その一つの結末として、地球人口の削減計画が進行していることは、いつもお伝えしている通りである。ちょうど表の価値観と裏の価値観が正反対になって見事なバランスを見せている。
子供を殺す権利
さて、人間には過去を美化する癖(ノスタルジア)があり、昔の日本は良かったなどと思いたいものである。ワクチンで妊婦を狙うなどと世も末だと思いたいが、昔から「間引き」という言葉があった。そこで少しネットを調べてみたところ、私としては結構驚きの実態があったようである。
星野正紀・武田道生は江戸時代の間引きや子おろしと現代の中絶を、それらをとりまく社会制度と子どもの霊魂観の点から比較して、次のように指摘している。伝統的地域社会では、間引きや子おろしは生存のための行為として共同体の了解のなかで正当化されるうえ、子ども特有の霊魂の再生観が罪の意識を生じさせない。これに対して、都市化や核家族化が進んだ現代社会では、中絶の責任が個人に負わされるうえ、水子は成人と同じ霊魂観を認められる存在となる。ここから、発生する負の精神性が人間化した水子霊の祟りを怖れさせ、依頼者は安らぎを得るために供養すると言うのである(3)。
彼らと同様にほとんどの水子供養研究が間引きや堕胎の原因を貧困や飢餓に求め、しばしばそれを常習と考えているが、歴史人口学ではすでに、貧困のためだけでなく、高い生活水準を獲得するために家族規模を制限したとする反論が次々と出ている点は、知っておかなければならない。
ウィリアム・ラフレーは、江戸時代の間引きや堕胎を合理的な家族計画の手段とする主張に依拠する例外的な研究者であり、これらの行為を容易にする宗教的資源をモラル・ブリコラージュと呼んでいる。それは仏教の輪廻観・民俗仏教の子どもの再生観・言語的隠喩・地蔵信仰等の曖昧な集合体である。こうして、子どもを神仏に「返す」「戻す」儀礼への仏教の関与を積極的にとらえて、星野・武田の認識とは逆に、現在の家族計画の一環としての中絶と水子供養を、この延長の上に把握している。
水子供養の歴史的背景 http://www.ne.jp/asahi/time/saman/haikei.htm
こちらには、具体的な間引き方法が書いてある。
柚架里 勉強:昭和初期までの子供の間引きについて
ウィキペディアの「子殺し」には、世界各地に「親が子供を殺す権利」のようなものがあったことが記述されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E6%AE%BA%E3%81%97
こうしてみると、必ずしも飢餓状態のような究極的な状況だけでなく、通常の経済的な理由で間引きが実施され、そこに罪の意識を植え付けて「水子供養」といった形で宗教が繁盛するという構図は、今も昔も変わらないようである。昔は、病気などで乳幼児死亡率が高かったと言われるが、実は「乳幼児殺害率」が高かったのかもしれないのである。もちろん現代では出生後に殺すと犯罪になるため、それをグローバルな規模で代行してくれているのが、マーガレット・サンガーの家族計画、優生学に始まる、小児虐待で有名な国際変態ネットワークだと言えるのかもしれない。
あの誘惑は何なのか?
だが、いくら昔は社会的に常習として認知されていたとはいえ、出産後に子供を殺すというのは、少なくともあまり楽しいことではないはずである。では、どうしてそんなことをする必要が発生するのかといえば、当たり前だが、性欲である。もっと煎じ詰めると、性愛全般でもセックスしたいという願望一般でもなく、非常に具体的で恐縮だが、「中出し」したいという最後の一念である。
これに対峙する概念として、(まだ読んでいないが)五木寛之氏が有名にした「ポリネシアン・セックス」という射精を目的としない性愛スタイルがある。「スロー・セックス」などとも言われているようである。これは、加工食品など刺激的な味覚に慣れた通常の食生活に対峙して、食材本来の味わいに目覚めたロー・フードやヴィーガンといった食スタイルの性愛版ではないかと思う。
これは想像に過ぎないが、古来の人間には、こうした本当の快楽の知恵があり、避妊具がなくとも、ごく自然に出生数をコントロールできていたのではなかろうか。そうした感性が失われた結果、射精することにしか価値が見出せなくなり、その結果、間引きなどという残酷な風習が発生することになり、あるいは、人口増大、食糧不足、資源開発、食料増産、また人口増大というスパイラルに陥ってしまい、現在では人間が住むことができないほど地球の汚染が進みつつあるのではないかと思う。どんな生物も増えすぎると個体数が維持できなくなり、減少に転ずるわけであるが、これは大局的に見れば、人間についても自然の自動調節機能が働いているとも言える。もちろん、極論すれば、ブリサリアンのように食べなくても生きていけるし、人間が生活スタイルを改めれば、100億人になろうとも地球を汚染せずに共存可能なのかもしれないし、他の惑星への移住も可能性としてはあるだろう。何が最適な人口なのかは、人知の範囲を超えている。
そして、またこれも想像に過ぎないが、旧約聖書の神は、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(創世記1:28)と人間に完全支配を命じているが、どうして人間に増えてほしかったのだろうか? 人間でも、例えば、たくさん穀物が実ってほしいと思うだろうし、魚の養殖業者なら魚がたくさん育ってほしいと思うだろうが、そんな感覚である。旧約聖書の神というのは、人間を食べ物にするために自動的に増殖するようにプログラムしたのだろうか。人間の「中出し」願望というのは、意図的に仕組まれているような気もする。最近は増えすぎて質も落ちてきたので、良質なものを厳選して生産するように方針を変えたのかもしれない。
こんなことを考えていると、子供ができましたとか、生まれましたと聞いても、素直におめでたいと思えないわけであるが、何事も両面がある。ここで話題をポジティブな方向に切り替えたいと思う。
本当の愛とは何かという難しい議論があり、話題は尽きないわけであるが、男女の愛という意味に限定すれば、恐らくその相手の子供が欲しいと思うことが本当の愛の証拠なのだろうと思う。それ以上か以下なのか知らないが、そうでない愛であれば、相手が異性である必要はないわけだ。
少子化と投資分析
現在の日本では、間引きどころか、少子化が問題だと言われている。少子化が本当に問題なのかどうか別にして、その主な原因は、子供が生まれることで経済的な負担が発生することにある。子供が経済的に自立するまで約20年の「教育」期間が必要であり、一説によると、子供一人の教育費は、2千万円にもなるらしい(参考:『平成21年度 文部科学白書』第1章 家計負担の現状と教育投資の水準 http://www.mext.go.jp/...)。これを敢えてフィナンシャルな観点で表現すれば、子供が一人生まれた瞬間に、2千万円の負債(義務)を抱えることになるのだ。簿記は両建てである。負債が発生するということは、相手科目があるはずだ。何だろうか? 資産であるとすれば、子宝か? 精神的な満足か? 将来子供に面倒を見てもらうとか、子供の将来の収入に期待するという希望値か? こうしたプラス面に2千万円相当の価値があるかどうかである。高度成長期のように将来いくらでも仕事がありそうな好況の実感があれば、「中出し」してもいいかなと気も緩んでくるわけだが、今のような不況であれば、いつまで自分の負担になるのか分からず、多くの人はプラスの価値が無いと判断するから(あるいはそれだけ投資するための資本力が無いから)、途中で萎えてしまい、少子化が進行するわけである。資産を伴わない負債を抱えるということは、簿記的には「損失」確定である。子供が生まれた瞬間に、負債2千万円、損失2千万円が計上されるわけだ。そんなことを意識的に計算している人は少ないと思うが、「経済的に厳しいから子供は増やせない」という常識的な思考を難しく表現すると以上のような話になるのだと思う。政府は、これをもって、教育費の補助をすれば少子化が抑制できるように思っている気配があるが、それは、教育産業の資産を増やし、国の債務を増やすだけだ。
出生により、親に経済的な負担が発生するだけでなく、実は、生まれてくる子供本人も悲惨である。誕生早々に各種ワクチンを注入される。遺伝子組み換え食品などバラエティに富んだ有害食品を食べさせられる。そうして軽い麻痺状態になった心身でもって、国際変態ネットワークが支配する世界システムにとって優秀な奴隷となるように学校「教育」され、以降の辛く長い人生を歩んでいかないといけないのである。昔の人の方が知的に優れていると感じたり、最近の子供はバカが多い感じることが多くないだろうか? それは、こうした有害物質でハンディキャップを背負っているからだ。これだけハンディキャップを背負わされた今の時代に正常な思考ができる子供がいれば、本当に偉大である。子供を持つ方には、これは認識しておいていただく方が良いと思うが、ご自身が育った時代よりも、今の子供が育っている時代には、より洗練された有害物質が氾濫している。それだけ子供はハンディキャップを背負った状態にあることを割り引いて考えずに、自分の子供の時と単純比較してはいけないだろう。
さて、膨大な負担となっている教育費で子供が何を習得しているかであるが、学校教育では、食べ物の作り方、調理方法など、生きるために必須なことをほとんど教えていないのである。そうした衣食住の基本を教えることなく、読み書きや計算、社会や理科の暗記ばかりさせている。受験の得点を上げること、つまり、知能の囚人、自力で生活する能力のない、国際変態ネットワークの奴隷に仕立てあげているだけなのだ。現代社会では金があれば、(経済が円滑に機能している限り)生きていけるのも事実である。良い学歴をつければ、安定的な収入が得られると期待するのもわかる。だが、大学を出ても就職が無い時代になっている。仮に良い大学を出れば安定収入が保証されているとしても、金だけが頼りの人間はパニックに弱い。経済恐慌、金融破綻になれば、生きる術を失ってしまう脆い人間である。いつもマネーの残高を気にし、マネーがなくなったらどうしようと不安に怯える人間にしかなれないのである。その不安こそが、国際変態ネットワークの支配道具である。
本当に生きる知恵を身につけておけば、よほどの自然災害でもない限り、生きていく分に不安はないわけだ。生きる知恵とは、例えば、最近発見したのだが、この方がブログに書いておられるようなことである。
野人エッセイす http://ameblo.jp/muu8/
エンターテイメントとして学問を楽しむのは結構なことだと思う。だが、あくまで衣食住の基本を学んだ上で、余暇でやるべきだ。生活に必要な基本を教える暇もないほど、2千万円も使って子供を学校に行かせる愚行は、再考が必要だろう。住居費など他の要素も合わせ、この「教育費」こそが、人々を借金漬けにし、金儲けに駆り立て、国際変態ネットワークの世界システムを金銭的にも支えているのである。
生活に必要な基本というのは、学校でなく、家庭で教えられることのはずだ。最近では、そもそも家であまり料理をしないこともあるのだろうが、子供に家事の手伝いをさせないようである。また、サラリーマンであれば、仕事を手伝わせることもできないから、金儲けというものがどういうことなのかを分からせることもできないだろう。人間というものは、利己的であると同時に、自分のためだけに生きることもできない奇妙な存在である。人のために役立ち、感謝されたときに、初めて自分自身の存在意義を確認できる。そうした機会を奪い、無意味な学校の勉強だけを押し付けられるとどうなるのだ? 死にたくなって当然だ。社会に出た後も、コンビニで弁当を買って食べるしか能のない人間にしてはいけないだろう。
教育の本来の目的は、教えるというよりも、自分で考える能力を身につけることだろうと思う。自分で考える能力さえ身につけば、教室で勉強しなくとも、勝手に本でも読んで知識を増やすことはできる。そして、考える能力というものは、教科書にある言葉を覚えたり、抽象化された数字を弄ぶだけでは身につかない。料理をしてみればわかることだが、現実の野菜には同じ形のものは一つとしてない。それをどう切るか、どう調理するかには、無限の可能性がある。あるいは、調味料の配合をどのように計量すれば、最も効率的か。そんなことを考えると、料理というものは、相当に頭脳を使う作業なのである。アドリブが必要なのだ。あるいは木材を買ってきて机を作ってみればわかるが、相当に注意して図面を引き、工作しなければ、不安定なものしかできない。構想するだけなら実に簡単に思えるが、現物を扱うのは机上の計算とは別の頭を使うところがある。さらに山から木を選んで伐採するところまで自分でやるとしたら、想像するだけで気が遠くなりそうだ。そうして実際に苦労すると、数学の有難み、必要性もわかってくると思う。「数学は嫌い」などと、好き嫌いの問題ではないのだ。
子供の本当の価値
さて、金銭的な問題に偏った観点で述べてきたが、やはり子供というものには、金銭的な価値だけで論じる以上のものがある。少し前までは、陰謀論というのは、一部の限られた人々の趣味の世界だったわけであるが、最近では、食品の危険性やワクチンの問題を中心に、子供のことを真剣に守りたいと考える母親の方々にも広がりつつあるようである。「真剣」にであって、「中途半端」にではない。
中途半端に子供のことを考えている人々は、政府や企業の宣伝に乗せられるだけである。ちゃんとした「教育」を受けさせないと可哀想とか、子供の安全のためにはワクチンを接種しないといけないとか、要するに金のかかる話ばかりである。おそらく、世間的にも、「親としての義務」を果たしていないと非難されるのが嫌なのだろう。だが、そうした人情あふれる心理にこそ、国際変態ネットワークがつけこむのである。子供のために無理な出費をし、そのために無理をして金を稼がないといけなくなる。人を騙してでも、嫌な仕事をしてでも、金を稼がないといけなくなる。だが、そうした「親としての義務」と思い込んでいるものを果たすことが、本当に子供のためになるのかどうかだ。
こうした子供への思いをマネー崇拝のネットワークに利用されているだけでは、たまったものではない。真剣に子供のことを考える母親の執念が、真実の情報を広く社会に広げる可能性を持っていると私は思っている。大半の男は、社会の序列に組み込まれて身動きできなくなっている。だが、そうさせているのは、女のせいでもあるのだ。
現在、当サイトで最も読まれている過去記事は、マイク・アダムスの「HPV(子宮頸癌)ワクチンの大インチキを暴く」である。昨年の11月に掲載したときには、それほど関心を集めなかったわけであるが、製薬会社2社がワクチンの承認を終えたか申請中という絶妙なタイミングで、私は趣味でこの物騒な記事を翻訳・掲載したわけではない。標的となっている年齢層に娘がいなければ、やってなかったと思う。これこそが「親としての責務」だと感じたから、やっただけのことである。そういう意味で、子供は原動力になる。不安を打ち破る勇気の源泉である。その力がなければ、いくら真実を解明しても、知識自慢、趣味としての陰謀論の世界にしか留まらないだろう。
子供が負担(負債)なのは、今の社会システムが子供で儲けようとして、そうさせているだけである。本当の教育に目覚め、未来の社会を築く原動力として子供を認識すれば、心の底から「誕生おめでとう」と思えるはずである。
関連情報
江戸時代の人口調整方法 (永井俊哉ドットコム)








