掲載2009年11月29日
【書評】 老子道徳経と未来ビジョン
『タオ・コード』

この660円という極めて安価な本に、太古から受け継がれた値段のつけようのない知恵がある。著者は27年前に中国雲南省の山奥の村落を訪問し、そこで老子の極意を授けられたそうである。ノンフィクションということなので、事実なのだろう。
「道徳」の真意
この本によると、「道」は男性器で、「徳」は女性器を意味し、「道徳」は性愛のエクスタシーを意味する暗号だったという。キリスト教も仏教も、多くの宗教が姦淫を戒めているのとは正反対になる。ただし、男女の性愛というだけの意味ではなく、普遍的な交流とも言うべきもので、性別に関係なく人間としての愛、動植物、無生物まで含んだ性愛である。それならば、キリスト教の「愛」と似ているような気もするが、キリスト教は男女の性愛を一夫一婦制で制限しておきながら、隣人愛(隣の奥さん?)も勧める宗教であり、その真意は定かでない。
難しい神学はさておき、現実問題として実際に我々の生活に影響を与えているという意味で言えば、キリスト教の最大の特徴は「一夫一婦制」にある。日本の一夫一婦制は、キリスト教の真似をして明治31年の民法で定められた。今のような神前結婚式も、キリスト教に熱心だったといわれる貞明皇后(大正天皇の皇后)が始めたそうである。(参考 東京大神宮 神前結婚式)
日本人の大半はキリスト教徒ではないと思っているが、このように実際にはかなり影響を受けている。また、何でも昔からあった日本の伝統のように言う人がいるが、一夫一婦制や神前結婚式には百年ぐらいの歴史しかない。
常識の打破
一夫一婦制あるいは「貞節」は、社会の常識となっている。一方で実態的には、浮気、離婚、未成年の性行為など、ほとんど崩壊している。その理由は、性「道徳」が乱れているからだと言われる。
しかし、この本を読めば、道徳(性)を乱したのが、一夫一婦制であることが分かるだろう。
これは人によってはショッキングな話かもしれない。また、大いに誤解を生じる可能性があるとも思う。
私は自分の最大の敵は「慢心」にあり、自分がバカではないと思うときが要注意であると心がけているが、あまり謙虚になりすぎると何も言えなくなる。ソクラテスが何も書き物を残さなかった理由もそのあたりにあるのだろう。当たり前だと思っていることを、どこまで疑うことができるかが、死ぬまでに何を達成できるかと関わっているように思うが、そういう意味で、「一夫一婦制」を疑うことは、最も奥深い問題とつながっている。
だから、この本は、ある程度、欲に囚われない段階に達した人でなければ、危険かもしれない。勘違いすると、セックスを利用した新興宗教にはまる可能性もある。
抑圧され変態化する欲望
「一夫一婦制」では、互いに束縛して閉鎖回路になる(ことを「天主」に誓う)。本来、大きな自然の中で、さまざまなものを吸収しては、排出するという、交流の中に我々は生きている。それをあえて城壁で囲んで外部との交流を絶てば、自家中毒になる。
「浮気」をするのは、相手に無いものを他の人に求めるからだろう。普段の食事ではミネラルが不足するので、サプリメントで補うようなものである。それを嫉妬で阻止するならば、その無いものを全部、備えてくれと相手に求めるようになる。もともと無いものだから不可能だ。これが醜悪な恋愛のもつれをもたらす。
キリスト教の真意は、一夫一婦制で束縛することによって、犯してはならない罪を犯させるという倒錯を楽しませることにあるような気さえする。
さて、いくら問題があるからといって、法律は依然として一夫一婦制であるし、一夫一婦制をなくすのであれば、地域の共同体でわけへだてなく子供を育てるという環境がなければ、ただの乱れた社会になってしまう。
従って、この深奥の部分にたどり着く前に、沢山クリアされるべきことがある。だから安易に飛びつくとセックス・カルトの餌食になるだけだと、私は警告しておきたい。その上で、最終的な着地点としてどのような社会があるのだろうかと具体的にイメージするために、最高の本である。
補足
本を紹介するに当たり、著者の千賀一生さんに若干の内容確認をさせていただいたので、それを追記しておきたい。
P160に日本とドイツが最も残虐な歴史を刻んだという記述があるが、これは戦後教育に毒された歴史認識そのままで残念である。どちらが残虐かという比較をあえてすれば、イギリスとアメリカだと私は思う。ただし、戦争の歴史を議論する上で、あるいは現代政治を議論する上で、我々はついつい「国」単位で議論してしまうが、これ自体が大きな間違いである。私の偏見的なイメージでは、平均的なアメリカ人は流行に左右されやすいナイーブな人たちであり、平均的なイギリス人はユーモアに溢れた田舎者である。ひとたび戦争になれば勇敢かもしれないが、もともと戦争が好きで仕方ないという人には会ったことがない。戦争によって利益を得る一部の人間に操られただけだ。その一部の人間とは、「戦場に行かない人たち」(戦場に行っても安全圏にいる人も含む)である。このカラクリは、「国」単位でものごとを考えると絶対に分からない。あいかわらず自虐的な歴史認識が好きな人が日本には多いが、自ら好んで戦場に行った人がいったい何人いるというのだろう。
著者がここで主張されたかったのは、一般常識として「がんばる」ことが大事だと言うけれども、「がんばる」ことこそが諸悪の根源であるということであり、がんばる国民性というイメージで日本とドイツを例示したかったという趣旨だそうだ。それついてはまったく同感であり、「がんばる」を換言すれば「経済成長」であり、「経済成長」こそが地球と我々の身体を滅ぼしつつあることに間違いない(病気が増えて医療費がかさむのも経済成長だ)。一般的な老子解釈でも、老子の思想は「無為自然」と言われるが、それを分かりやすく表現すると余計な「がんばる」をしないことだろう。
また、「進化」について質疑をした。
(為清)P171に「彼らこそ我々よりも遥か先端を行く、進歩した人々」とあります。 文明社会の我々より優れている点は、まったくその通りだと思いましたが、彼ら自体もなお進化しているということでしょうか? その進化とはどのようなものでしょうか? 私は進化というもの自体が物質的なものしかありえないのではないかと思っていますが、精神的な進化というのもあるのでしょうか。老子が人類太古の道徳を伝えるために残したと述べておられる通り、太古から変わらないものを彼らは維持してきたのではないでしょうか。 その上で、どのような進化を目指しているのか知りたいと思いました。きっと言葉で表現できないものだとは思いますが、そのようなものがあるという確信をお持ちかどうかだけでも結構です。
(千賀) これは、マクロな視点で見て、そう書きました。 私は、生命は、繰り返しであり、同時に進歩でもあると思っています。 生命は進化し、私たち人間のような知性を持つ存在へと到達しました。 これで終わりだとは私は思っておりません。 私たちが知る知性以上の段階があると、彼らを見てそう思います。 誤解をおそれずに言えば、それは、霊的な進歩と言ってもいいかもしれません。

ご参考
All About 明治の初めまで日本も一夫多妻制だった!?








