2009年9月7日
「ワケがわかりません」

第1話 九月が怖い

昭和六十三年九月七日に父が亡くなってから今日で二十二年目になります。
午後二時頃、父が危篤で救急車で運ばれたと電話がありました。いつもすぐに行動に移す私ですが、その時だけは何をしたらよいのか検討がつかず、ただ呆然としていると、数分後にまた電話があり、亡くなったことを知らされました。
急いで飛行機を手配して、娘と息子、オバケ(夫のことです。詳しくはまたの機会にお話ししたいと思います)と四人で家を出ました。何とか最終便の飛行機に間に合う電車に乗りましたが、オバケが逗子行きの表示を見て「こりゃ東京には行かん、ぜんぜん違うとこに行く」と勘違いしたために千葉駅で電車を降りてしまい、夜行列車に変更して実家に帰ることになりました。
最後の電話
翌朝、実家に着いたと思ったら身体の力が抜けて、家から出てきた姉にふらふらとすがろうとしたら、姉は身をするっとかわして自分の家に入りました。父は、それほど苦しまないで死んだように思われる、安心した死顔でした。
亡くなる前の最後の会話は、九月一日に父からかかってきた電話でした。実家は貧乏していたので、いつもはいったん電話を切ってかけ直すようにしていましたが、その時は父がそのままでいいと言い張って切ろうとしません。電話の内容を細かくは覚えていませんが、最初に「腹が減ってやれん」と父が言ったのは覚えています。私が弁当屋さんに頼んで昼を届けてもらうようにしようかと言うと、姉の存在があるからか、それも要らないようなことを言ってました。電話を切るときに、いつもは言わない「さよなら」という言葉を聞いたのが、父の最後の言葉でした。今でもその声がはっきりと耳に残っています。当時はまだ長距離電話は高かったのですが、このときの八千円ほどの請求書が父の四十九日の法要の時に届き、私が払うことになったのは奇妙な巡り合わせに思えました。手紙は娘宛のものが最後でしたが、何が書いてあったのか、娘はその手紙の内容のことを話そうとしません。
緑色のシミ
父の死因は「不全」ということでしたが、寝ていたベッドには10cmほどの緑色の吐瀉物の跡がありました。目がほとんど見えない義兄が「爪に緑色のシミがついていた、看護婦さんが拭いていた」と言ったのも不思議でした。
九日、火葬を終え、その日の内に初七日をしました。大勢の人が来るというのに、鉢に盛ってあった米にゴキブリが湧いて汚いので捨てると、親戚のおばさんに「それは一合メシと言って、納骨までそのまま置いておき、墓に持っていくのだ」と言われ、一合炊き直すことにしました。
しかし、鍋で米をいくら炊いても、お粥のようにしかなりません。おかしいなと思いながら、どうしようと思っていた時です。姉夫婦がお寺にお布施を持って行くらしく、車が出る音がしたとき、父が私を呼ぶ声がしました。ガスを止めて、父が呼ぶ声の方へ行くと、緑色の農薬のパラコートが二本、新しい手付かずのものが一本と、バケツがかぶせられ中身が減ったのが一本ありました。これに義兄が言った緑色を重ねて考えると、父がパラコートの液体を飲んで自殺したのだと察しがつきました。主治医の先生が娘の将来のことを思って死因を「不全」にしてくれたのだと思います。
炊事場に戻ってみると、不思議なことに、あれほど炊けなかった米が、ちゃんと炊けていました。葬儀の棺を送り出すときに歩く道筋も草取りがしてありました。父が亡くなる数日前に草取りをしていた、話しかけたら何故か泣いていたと、近所のおばさんから聞きましたので、自分で葬式の準備をしてから死んだのでしょう。
初七日の席で、半分ボケ始めていた母が皆の前で、「じいちゃんは、毒を飲んで死んだ。死ぬ前に熱いお茶が欲しいというたから飲ませた」と話し始めたので、私は止めようと口をはさみましたが、普段は常識ある義兄が、具体的にどうやって死んだのかと来客の前で問い質したのには驚きました。
相変わらずワケのわからない面々
オバケは、私の気持ちとは無関係に、いつもの一人宴会を続け、父のお骨の前で盛り上がっていました。ワケがわかりません。その内に他の人は同じ敷地にあった姉の家に引き揚げてしまい、一人で飲んで騒ぐわけにもいかず退屈したようです。姉の家に来て私を「ちょっ、ちょっと、こっちへこい」と呼び寄せます。私は何の用事かワケがわからないので迷っていると、姉が眉間に皺を寄せながら「行ってあげなさいよ」と言います。
仕方なくオバケと実家に戻ると、亡くなった父の吐瀉物の緑のシミが残っているベッドで私の身体を求めてきました。まったくワケがわかりません。私は情けなくて涙が出るばかりで、鬼畜というのはこういう人のことを言うのだと思いました。
泣きはらした顔で姉の家に戻ると、姉はにやりと妙な笑いを浮かべていました。後で「男の人というのはこういうときに欲情するものなのよ」と言っていましたが、ますますワケがわかりません。私は、本当にワケのわからない人たちに囲まれた人生を過ごして来たように思います。今となっては笑えますけどね。
父が自殺した原因は、母と姉にあることは分かっていました。腹が減って仕方ないと電話してきた父でしたが、姉はいつもの虚言癖で草履のように大きなステーキを食べさせていたと言っていました。
135日後に母も逝く
翌年、元号が変わって平成元年一月二十日の早朝に、父と母が一緒に夢に出て目が覚めました。半分ボケている母のことをよろしく頼むというメッセージを父が伝えてきたのだろうと思い、両親の写真を眺めていると、六時過ぎに「今度は母がトイレの前で死んでいる」と実兄から連絡がありました。姉の話なので正確ではないかもしれませんが、死亡推定時刻は19日午後10時から20日午前6時の間ということでした。父の死から毎日、日数を数えていましたが、母が亡くなった日は135日目でした。母の葬儀の写真は、父の四十九日に撮った写真を使うことになりました。
父の死後、不思議な体験が始まる
父が亡くなってから、不思議な現象を経験するようになりました。その最初が、葬儀の帰りのタクシーで、オバケが骨壷を抱えて持っていたのですが、骨壷の袋に着いていたふさが無くなったと言い出すのです。普段は無くしたとしても、そんなことに気付く人ではないはずのに奇妙なことです。タクシーの中をいくら探しても見つかりませんでした。結局、千葉に帰ってからクリーニング屋で、オバケの喪服のポケットにあったことが分かりました。わざとポケットに入れたとも考えられず、自然にポケットに入り込むことも考えにくいので不思議に思い、人に紹介してもらって易者に相談してみました。易者の先生が言うには、父の危篤で15回も足を運んだ私にありがとうというメッセージなので、四十九日のときに持っていき墓に入れるようにアドバイスをもらいました。
娘の熱と父の苦悶のメッセージ
ある年の九月に40℃を超える熱を出した娘が「泥水の池を夢に見た」と言うので、再び易者の先生に相談に行くと、「身内の中に毒物で自殺した人がいるのではないか」と言い当てられました。何でも当てるわけではありませんが、仏事では的中率の高い人です。お寺でお経を上げてもらうと熱が下がりました。たまたま熱が下がる時期だったのか、お経の効果なのか、それは証明しようがありませんけどね。
しかし、次の年の九月も娘が熱を出し、見た夢で「おじいさんが土壁のようなものをどけてほしいと言っていた」と言います。しばらく意味が分かりませんでしたが、その後、墓参りに行ったとき、姉が除草のためにベージュ色のパラコートの顆粒を撒いていたことがわかりました。私はパラコートは緑色と思っていたので、土の色と結びつきませんでしたが、実際にベージュ色の粒を見て、そういうことだったのかと納得しました。寺の住職に話すと、檀家の人に細かく指図はしないようにしているが、パラコートだけは墓に撒かないように言ってあったのにということでした。
娘の発熱はその後も毎年続き、その都度、お寺に供養料を送ると熱が下がるという繰り返しでした。最初は娘の持病のせいだと思っていましたが、毎年決まって九月に発熱するので、父の関係であることが私には次第に明確になっていました。お寺の住職によると、父の霊が彷徨って実家に戻っているそうです。その頃には実家は火事で焼けて土地だけになっていましたので、敷地にお清めをすれば良いということでしたが、姉がいるのに差し出がましいこともできません。それで毎年お経を上げて寺に連れ戻してもらう方法しかありませんでした。
九月が怖い
九月は父の誕生日であり、命日にもなったのですが、生前から父は九月を怖がっていました。早く九月が終われば良いな、九月が終わるとホッとしてまた一年生きられると言っていました。
私自身も父が亡くなってから病気の連続でした。家系に喘息はいないのに遺伝性の喘息に二年間悩まされたり、その反対の症状である過換気症候群、十二指腸潰瘍、メニエル病、 75kgもあり太っているのに栄養失調で貧血、これは子宮からの出血が二年間止まらなかったためで、結局、子宮の全摘手術になりました。
平成十四年の九月には、娘の発熱がなく、「今年はよかったね」と言っていたら、尿管結石の手術で入院していた息子に熱が出ました。手術が原因で出た熱にしては高すぎるので、原因不明でした。やはりお寺でお経を上げてもらうと熱が下がりました。
その翌年の平成十五年九月は初めて何事もなく過ぎましたが、十月三日に娘が可愛がっていた犬が死にました。後になって娘は、おじいさんが笑ってその犬を抱いている夢を見たそうです。お寺の住職から、「お父さんは霊界に入られましたよ、もう大丈夫です」と告げられたのもその頃で、父が犬を連れて行ったのだと解釈しました。ある所で聞いた話では、自殺者はお坊さんが百八回の読経をしてようやく霊界に入れるそうです。月命日の法要を行ったとして九年、父の場合は月命日をしていなかったので十五年ほどかかったのだろうかと思います。
それ以来、私は潰瘍の薬の服用は続けましたが、特に病気になることもなく、最近では潰瘍の薬さえ必要ないと医師に言われるまでになりました。
自殺を検討中の方に是非知ってほしいこと
父の死(というか死後ですが)を経験したことで、私なりに得たものを、是非お伝えしたいと思います。
地獄にはあの世の地獄とこの世の地獄があり、それは一体となってつながっているということです。父は生前、「死んだら草葉の陰から見守ってやるからな」と言っていました。きっと本人はそのつもりだったのだと思いますが、実際に行った世界は、そんな甘い考えは許されないところだったのでしょう。結局、現世に生きる私や子供たちの苦しみを通じてでなければ、霊界に入ることができなかったのだろうと私は実感しています。幼い息子は、苦しむ私の姿を見て「おじいちゃん、見守ってくれなくていいから、おとなしくしててよ」と言ったほどです。
毎年三万の人が自殺をすると聞きますが、自殺を考えている人に、この事実は知っておいてもらいたいと思います。私は菩提寺や易者に相談することはありますし、何度も新興宗教に入れば気が楽になるだろうとも思いましたが、信仰(=他人)に頼るという選択はしませんでした。お寺に供養の金品を送ったことも、それはそれで意味があることなのでしょうが、究極的には、私や子供たちが、肉体的な苦痛を経験することで受け止めてあげるしかない部分があったのだと思います。オバケのDV(家庭内暴力)もその一つとして受け止めました。
自殺する人は、死ねば今より楽になるとか、家族のために死ぬのだとか(生命保険を残すとか)、死ねば何もかも終わりと思って死ぬのでしょうが、現実は決してそうではありません。本人があの世の地獄で苦しむだけでなく、それと同等の苦しみが、残された家族に、この世の地獄として襲いかかるのです。それも、父の場合、私が一番、次が娘、そして息子と、自殺した本人が可愛がっていた順に大きな心身の苦痛となって現れました。
それでも、そこまで分かっていても、私自身、二年前に自殺を決意したことがあります。自殺を決心して入ったビルの窓が開閉できないタイプだったというお粗末な理由ですが、結果的に思いとどまりました。すべてを諦めたその後で、未整理だった実家の遺産を整理し、私の相続分をすべてお寺に寄付したとき、還暦の節目とともに今までの私には見えなかった世界が見えるようになりました。これは父の供養を我が身に引き受けたことに対して、父が私に与えてくれた宝物であると今では思っています。
亡くなってから十五年以上も霊界に入れなかった父ですが、今ではきっと私のことを見守ってくれているに違いありません。 (第一話 終)









